地域創造・用語集(書きかけ)



地域創造に関する用語解説。受験から、レポート、定期試験まで。参考にしてください。


注意!

この項で解説されている用語の定義はあくまで一つの解釈です。


地域創造

地域創造(Regional Promotion)とは、その英訳からも分かる様に、端的に言えば「地域おこし」「地域振興」「地域活性化」のことである。

近年、地方分権が進み、地域の経営が、政府国家機関から、地域の行政に任されるようになりつつある。 それにより、各地方行政は、自地域の経営の方向性を、自地域で決定していくことが可能となった反面、 経営に失敗した場合、その責任も自地域で負うことになるというリスクも背負うこととなった。これは、 現在の大学法人化とかなり似通ったものであると言える。

それは、大都市ならともかく、地方都市を初めとして、特に国家からの補助金によって 辛うじて成立している過疎認定地域にとっては、自治体の存亡に関わることである。

大多数の町おこし、村おこしなどの地域おこしは、主に観光によるもので、どのような小さな地域にも、観光協会は存在する。
それらの地域は、大規模な商業施設はもちろん、観光施設、全国に浸透するようなシンボルも何も持たず、 奈良市のように、大仏商法と揶揄されるような手法を取ることも出来ない。 その地域は、しばしば、自地域が田舎であることによって残存している「自然」を売り物としてきた。
しかし、それらはどこの地域でも行われていることであり、自地域の固有性によって成り立っているものではない。 そこへ来る観光客からすれば、どこの地域へ同じだから、どこへ行っても構わないのである。
そんな中では、自地域と、他地域との差異化。固有性を持つことが問われてくるようになった

高名な実存主義者であるサルトルは「存在するということは自分を創造することである」と述べた。

この言葉を借りれば、地域創造とは、地域が、現代の画一的平等社会において、 自分たちの地域の地域性を確立、アイデンティティを自ら立証し、それに基づいて、自分たちにとって、 経済的、社会的、機能的に、そして精神的にも生活を充実させていけるような「地域」を創造するということである。

つまり、「物理、精神両面において充実した地域の創造」を目指すのが、地域創造なのである。

さらに簡略化を図るならば、「よりよい社会を構築する方法を、地域単位で模索していく」ことである。

ただし、「地域創造」という言語記号は、あくまで造語であって、 一般には認知されておらず、 地域創造の概念はともかく、その言語記号は、あくまで奈良県立大学内でしか通用しないと言う事実も否めない。
近年では、「地域創造」の名を関する大学の学科(学部は今の所ない)が激増しつつあるが、同じ「地域創造」 でも、奈良県立大学の述べる「地域創造」とは必ずしも同じものではない。

これからの地域創造

奈良県立大学では奈良県立商科大学の頃 の名残もあってか、経済学、経営学を重点に地域創造を考察している。
しかしこれからは、

その土地の歴史、風土を研究する人文学。地区条例などの制定に関連する法学。
これからの自然と融和しながらの建築や、ライフラインなどの整備を急ぐ工学。
(妻籠村における、電柱の撤去や、高松塚古墳の解体などもそうである)。
その土地の生産力を研究する農学。
(そもそも、食料を自給できていない先進国など日本だけである)。
最近取りざたされている地域医療のための医学。


といった、あらゆる学問の分野から総合的に「地域」 のあり方を模索していかなければならない。
そして、突き詰めて研究して行けば行くほど、 あらゆる分野で高度な技術・知識・人員が求められるようになる。

奈良県立大学では、何かあればすぐに「予算がない」とのことで授業を削るが、予算がないのは「地域」も同様である。(学生の権利ですよ! 昔の県大生と同じだけの学費を払っているのに、権利が奪われているのですよ! 2007年からはもっと酷くなりますよ! 学校は、学生の事を、頭の鈍い奴らだとバカにしてるからこそ、そういう事を平気でしているのですよ!)

しかし、奈良県立大学に、そこまでの学問を取り扱う余裕はないこともまた事実である。
ただ、各々の学問と地域のあり方についてを考察している大学、研究者ならば日本全国にごまんと存在する。
そして、そういった過疎地域を研究している大学、団体などとのネットワークの構築はもちろん、 過密地域である都市を研究している所との情報交換も行わなければならない。
もちろん、奈良県立大学も、高崎経済大学を始めとした、志を同じくする大学との連携を図り、 法学、工学、生物学、農学などの幅広い分野からの講師を招請しているが、それでも、これからの 地域を創造していく上でのシンクタンクとなる為には、まだまだ程遠いと言わざるを得ない。

奈良県立大学の公式見解

奈良県立大学・村田武一郎教授によると、

「地域が内包すべき機能や社会基盤を、 そこにすむ人々をはじめ多様な関係者が、主体的に充足していく、あるいは創りだしていく活動 や行為の総称」

のことで、その目標は

@人々が共に生きていくことができる関係を築き、豊かな人生を送ること
A各世代が誇りをもって住み、他の地域にも貢献できる地域をつくること
B人間だけではなく、全ての命を大切にし、ずっと引き継いでいけるような地域をつくること

とのことである。

(「地域創造への招待」/奈良県立大学地域創造研究会編 より引用)

お役所のスローガンのようで、いまひとつ、具体性に欠ける気もしなくはないが、コンセプトだから仕方ない。
これが、奈良県立大学の公式見解であると見ても支障はないであろう。

ただ、地域創造の概念(コンセプト)は、極めて曖昧なものであり、 奈良県立大学の教授陣にそれを質問したとしても、明確な回答が得られる可能性は低い。 また、教授によっては全く相異なる解説をする場合もあるが、それは各々の専門分野から 地域創造へアプローチしようとしている為である。

奈良県立大学における観光、地域をメインとした学問は、上記の地域創造の目標を達成するための方法論である。

ただし、 具体的にどういう風にその学問を、 経済面以外の精神面などに適応していくか、という点についてを取り扱う学問を欠いているような気がしてならない。

経済的に豊か=幸せ、という図式が成り立たないことなどはもはや周知の事実であるのだが・・・
大学法人化

現在、執筆中・・・

ただし、大学側からすると、国家が大学に対して権利を制限して、義務ばかりを押し付ける 政策に過ぎないという意見もある。
これは、とある旧帝大での話であり、奈良県立大学のような弱小大学においては推して知るべし、である。

「学」と「論」

「学」とは、学問の中でも、全体的にその方法論、説などが体系化されて、広く一般化された学問である。

「論」とは、学問の中でも、全体的にその方法論、説などが体系化されて、広く一般化されておらず、まだまだ、 学説の域を脱し切れていない、初歩的研究段階にある学問、または、広く認知されていない、あるいは厳格に 体系付けることが不可能、合理的科学や理屈、論理で裏付けることの出来ない学問(記号論とか)などのことである。

基本的に「学」と「論」とは別のものであると言われ、教授陣の中でも、それらを使い分けている者居れば、 区別していない者もいる。

奈良県立大学生の必修科目・「地域創造学概論」とは、「地域創造学」が、奈良県立大学内はおろか、世間でもまだまだ確立化・一般化されてはいないため、「概論」を冠しているのだと思われる。(ていうか、たぶんそこまで深く 奈良県立大学は考えてはいるまい。考えている教授もいるが)
持続可能な開発

持続可能な開発(Sustainable Development)とは、例えば、むやみやたらと限りある自然環境を切り崩して 開発を推し進めていくのではなく、末長くそれを続けていける持続可能性(サステナビリティ)を 念頭に置いた開発を進めていくということである。
おそらく、奈良県立大学に入学すると、「地域創造」という言葉の次ぐらいによく聞く事になる言葉の一つである。

Developmentは、開発、成長、発展など、多様な言葉に訳され、経済学などの分野にも、サステナビリティの考え方が 当てはめられている。

ただし、「持続可能」と、「開発」はあくまで 相反する概念であり、「持続可能な開発」は、二律背反の矛盾を抱えた詭弁、バズワードに過ぎないという者も存在する。
Developmentをどのような言葉に訳したとしても、それは必ず、何かを犠牲にし、消費することになる。例え、開発、発展などの 上昇志向をやめ現状維持に方向転換したとしても、だ。

ミクロコスモスの考え方を地球にあてはめ、循環型社会を目指したとしても、 それは手遅れに近い。もはや循環しきれないレベルで消費が行われ、また、循環できない物質 (人工的な放射性廃棄物やプラスチックなど)で世界は溢れかえっている。

永遠など存在しない。

だからこそ、どのような意味で解釈したとしても、サステナビリティとデベロップは決して両立しないのだ。

彼らは、これからの時代は「持続可能な開発」ではなく、「持続可能な使用(sustainable use)」「持続可能な生存 (sustainable existence)」 を目指すべきだと主張している。そしてまた、その主張に賛成する者も多いということは、容易に想像がつくだろう。
地球温暖化

地球温暖化とは、大気中の二酸化炭素が増大し、それによる温室効果で、地球全体の温度が上昇すること。

地球の平均気温があと2℃上昇すると、南極の氷が溶け出し、海水面が少なくとも数十メートル上昇し、 多くの陸地が海面下に沈むと危惧されている。現在でも既に、氷河の融解が始まっている。
他には、熱帯性の病原体、あるいはそれを媒介する生物が北上しつつある。現に、台湾では、デング熱 が広まりつつあり、日本にも伝播する可能性がある。

これらの事態を緩和するため、世界各国は、二酸化炭素の排出規制を行っているが、アメリカや、発展途上国のように それを批准しない国もあり、難航している。

2006年には、アメリカ・カリフォルニア州が、GM(ゼネラルモータース)・フォード・トヨタ・ホンダ を相手取り、二酸化炭素の排出を助長し、州に要らぬ出費を被らせたとして、裁判を起こした。
これにより、芸能人が政治家になるとロクな政治をしないということが証明された。(カリフォルニア州知事は あのアーノルド=ターミネーター=シュワルツネッガーだ)

ただし、本当の所は、地球温暖化の直接的原因は、二酸化炭素と推測されているだけというのが実態である。そもそも、現在の地球気温が、地球史上、高いのか低いのか分からないのだ。
気象学者の中には、地球温暖化の原因は、地球の公転軌道の変化による温度上昇が直接原因で、そしてそれに伴う 温度上昇した海水の、二酸化炭素吸収量の減量。あくまでも、二酸化炭素は副次的な要因に過ぎないと主張する 者もいる。

海面は本当に上昇するか(この意見は極めて一般的ではありません)

このまま地球温暖化が進み、地球の平均気温が上昇すると、極地の氷が融解し、海水面が上昇。最悪、陸地の 多くが水没する、とよく騒ぎ立てられる。

しかし、実際に、このまま平均気温が上昇するとどうなるか。

まず、北極の氷だが、もともと北極には大陸は無く、北極の氷とは、海面に浮いている氷に過ぎず、例え北極の 氷が溶けても(ていうか、夏場は溶けている)、満杯のコップに浮かべた氷が溶けてもコップから水が溢れないように、 決して海水面が上昇することはない。

問題は、南極の氷である。
南極の氷とは、南極大陸の上に乗っているのであり、これらが融解すると、間違いなく海面は上昇する。1995年の 大ヒットアニメ、「新世紀エヴァンゲリオン」では、セカンドインパクトによって、南極大陸の氷が融解。海水面が 上昇し、日本の大部分が水没した世界が描かれたが、まさにそれである。

しかし、それはあくまでフィクションでの話であり、地球上の平均気温が上昇すると南極の氷が溶けるかということ とは全くの別問題である。
確かに、地球上の平均気温が上昇すると、氷が溶けそうな気もするし、実際、氷河の融解も始まっている。 だが、事はそこまで単純ではない。
南極とは、マイナス40℃に達する極寒の世界であり、我々の浅はかな常識など通用しない世界である。

もし、南極で気温が上がれば、降雪量が増大し、南極の氷は増える。 つまり、南極の氷が融解することなどはありえないのである。(第一、氷は最低0℃にならなければ溶けない。 果たして南極で、そこまで「温かく」なるにはどれだけのエネルギーが必要となるだろうか? ちなみに南極は 北極よりも寒い。理由は「大陸」だからだ)
何万、何億年後は、大陸移動により、 南極は現在の、いかなる生命体の存在をも拒否する世界から、緑に覆われた大陸になると言われている。 もちろん、その頃になればどうなるかは分からない。

ただし、グリーンランド(北極側)などの緯度の低い地域では、氷が溶けることになる。

氷河の融解も、別につい最近からはじまったものではなく、1900年頃から既に融解がはじまっており、 当時と現在でも、さほどそのペースは変わらないというデータもある。(まさか20世紀初頭から、人間社会がCO2 を21世紀初頭と同じぐらいに排出していたなどとは言うまい)

だが、それでも、プラスマイナスで、年間ミリ程度でしか海水面は上昇しないという気象学者もいる。

おまけ

小松左京さんには申し訳ありませんが、プレート・テクトニクスでも、日本が沈没することはありえません。ご安心を。 (韓国のどこかのおバカな反日コミックは、沈む沈む、ていうか沈め沈めと喚いてましたが)  ただしハワイは沈みます、何万年後かに。ですから、今のうちに観光しときましょう。

あと、たとえ海水面が50メートル上昇しても、奈良は大丈夫です。東京・横浜・名古屋・大阪・神戸は全滅ですが。
少子化

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大量消費社会

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格差社会

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産官学一体

現在、執筆中・・・

ただし、産官学の一体において、特に「産」は利益の追求を目的としたものである為、 農学部、工学部、医学部、薬学部などはともかく、 言語学、歴史学、地理学、古典・現代文学、心理学、哲学、教育学、社会学や、生物、物理、数学などの、 研究しても、成果が金銭には結びつきにくいが、決して社会にとって欠かすことのできない学問を研究する 文学部や理学部などの存在が軽視されてしまう危険性を孕んでおり、 ノーベル賞受賞者の白川博士などもその危険性を指摘している。
しかし、だからこそ、そういった学問は、大学でしかやらないし、大学でしか出来ないのである。

産官学一体、産官学一体と連呼する教員も多いが、どちらかと言えば文系で、地域創造の手法を文学部的学問に頼っている地域創造学部において、 安易に産官学一体という言葉を使用するべきでなく、取り扱いには慎重を必要とする概念である。

もちろん、地域振興に、「産」が参入してある程度の成功を収めている例もある。

それは、大和郡山市の金魚すくい選手権である。
金魚すくい選手権では、SHARPがスポンサーとして参与している。だが、金魚すくいには「官」や「学」 はそれ程関わってはおらず、産官学一体とは非常に言い難いが、貴重な例でもある。

ついでに、SHARPが在るのは大和郡山市ではなく、天理市である。大和郡山にもPanasonicがあるはずなのだが・・・
地域

地域(region)とは山岳地帯や河川をはじめとした地理的条件や、警察、消防、統治、自治、行政管轄などの、 なんらかの意味付けや区分けを用いて、他の土地と区別されるひとまとまり土地のこと。

単なる、区分けられた土地という意味だけでなく、そこに住まう人々の成す共同体(コミュニティ)や、 辺境の土地という意味合いで使用される場合もある。

各地域は、古来から、主に地理的条件によって区分けされてきた。
地理的条件によって異なるということは、気候や自然環境も異なるということになる。
よって、各地域によって、それが有する風習や、風潮、思考や価値観、文化、建築、宗教、言語など、 日常に深く関わる生活的側面において、他の地域とは異なる特色を持つことがほとんどである。

地域の観点から見た地域創造

地域には、6つの問題があると言う。それは、

人口が極端に減少・散在する、「過疎」
逆に、人口が極端に密集する、「過密」
他地域との、経済、収入面の、「格差」
自然破壊をはじめとした、「環境」
他地域との連携、相互理解を目指す、「交流」
あらゆる面で、地域の活気を取り戻す、「活性化」

であり、それぞれの頭文字を取って、6Kとも呼ばれる。

地域の観点から見た地域創造とは、これら6つの問題を解決していけるような地域のあり方を模索していくことである。

これらの問題を解決していくことは、地域再生とも呼ばれることがある。
コミュニティ

コミュニティ(community)とは、何らかの生物的集団によって、共同生活の営まれている地域空間のことである。

社会学者・マッキーバーによれば、

「人々の共同生活が営まれている」
「一定の地域に共に居住する」
「相互に接することにより、生活の諸側面において社会的特徴を持つ」
「一定の包括性で自足性を持つ」

などの定義がある。

これらの地域コミュニティは、概して、保守的で非合理的な伝統的・歴史的慣習を何よりも重要視する傾向にある為、 それらが、地域おこし、地域創造を行う際に、大きな弊害にもなることもある。



全くもってどうでもいい話だが、コミュニティについてを取り扱う、山本×世女史の「地域社×学」という授業において 伝統的型地域社会の例において、「ひぐらしのなく頃に」というアニメが取り上げられた時、「こいつ、オタクか!?」 と筆者は一人で大ウケしていた・・・えっ? そのネタが分かるお前はどうなんだだって? さあ? ナンノコトカナ?(汗)

ちょっと休憩・蛇足的コラム  オタク的サブカルチャーと地域おこし

「ひぐらしのく頃に」

昭和五十八年、「おやしろ様」という謎の神が信仰される雛見沢村で繰り返される惨劇を描いたホラー作品。

元々は、個人製作の同人ゲームだったのだが、口コミで噂が広がって、大ヒット作品となり、遂には正規の商業用 作品として、コミック化、アニメ化を果たしたという異例の作品。 あまりにもヒットしたため、NHK総合TVでも取り上げられたことがある。(だから筆者は知ってたんだよ・・・たぶんね)

内容は、筆者はプレイしたことないからよく知らんが、最近、いわゆるアキバ系の美少女ゲーム(18禁)で流行している エロ・グロ・ナンセンス(この言葉を知ってる人は、相当、昭和日本の文化史に詳しい人だ)なゲームっぽい。
かなり怖いという噂。

蛇足だが、こういうサブ・カルチャーによる「地域おこし」も注目されつつある事実を頭に留めておいて頂きたい。

有名なのは、「ゲゲゲの鬼太郎」の原作者・水木しげるの出身地・鳥取県境港市の妖怪町おこし。
あるいは、京都においては、「新撰組」や「義経」「陰陽師・安倍晴明」、女性向け恋愛シミュレーションゲーム・ 「遥かなる時空の中で」などの影響によって観光客が本当に増えた、という事例がマジで報告されている。

まあ、京都は 「アンノン族(女性ファッション誌・「アンアン」「ノンノ」を読んで、京都に妙な憧憬を持ち、実際に京都に来て陶酔してる 女性)」なんてのを始めとした、ミーハーが大好きな観光地でもあったりするんだけどね。
同様に、「冬のソナタ」や「世界の中心で愛をさけぶ」などの例もある。

「名探偵コナン」の原作者・青山剛昌の出身地においても、工藤新一の像が立ったり、スタジオ・ジブリのある 東京の三鷹市などは、やたらとマニアックなアニメや ゲーム(「エクスドライバー」とか「ぽぽたん(18禁ゲーム)」なんて、知ってる?)のキャラクターを使用した官報ポスターを多数製作していることで有名である。「エヴァンゲリオン」のオリジナル官報下敷きを小学校で配った自治体もあった。なんてうらやましい!!

他にも、どこの街かは失念したが、備長炭の産地の街で、「びんちょうタン」という萌えキャラクターをマスコットにしてる所があったが、「びんちょうタン」も、もともと18禁ゲームメーカーのマスコットキャラクターなのだ。 (「君が望む永遠」とか「マヴラヴ」なんてゲーム、知ってるかい!? 筆者ですら知らねーよ・・・さすがに)

・・・やめときゃいいのにね。もはや、なりふり構わずだ。そこまで現代の地域は追い詰められている・・・という考えはあまり正解ではないだろうけど。

ただし同様のことを小学校でやって、さすがに問題になった例もある。(「水夏 O-157の夏」なんて知ってる?)

オタク文化、侮るべからず。
・・・まあ、サブカル地域創造は、詳しくは遠藤教授にでも聞いてみるか、現代文化に興味のある人は、 卒業論文のテーマにして研究してみたら?

もう少しまじめな話では、芥川賞作家を誘致して、自分の地域を舞台にした小説を書いてもらって、地域おこしをしようなんて ことをやってた街もある。どこかは忘れたけど。(和歌山の方だったと思うけどな・・・)

こういう、既存のキャラクターを使用する手法は、著作権料の問題があるが(とは言え、境港はそれもなさそう)、元手や設備投資がほとんどかからず、人様のテイストを加工なくそのまま加味することが出来るため、なかなかにイージー、かつリーズナブルな地域おこしではある。

こういうことをすると、ネット上ですぐ知名度がうなぎ上りとなり、下手をすると「週刊新潮」などの割と有名な週刊誌に取り上げられることさえある。外務大臣の麻生太郎大先生が、ネット上ではやたらと人気が高いのは、これに近いものがある。(「ローゼンメイデン」・・・なんて知らないよなあ、やっぱり。カタギの人たちは・・・。麻生さーん。早く総理大臣になって、我々オタクにも人権を与えたもれ!)

乱暴な言い方をすれば、最近の日本が海外に誇れるものなんて、自動車とアニメぐらいのもんだしね。 日本刀ですら、最近は海外のナイフ・スミスの方がいいものをつくってるぞ。第一、日本国政府は「日本刀は日本が世界に誇れる文化」とか言いながら、法律で日本刀製作を厳しく制限しすぎなんだよ(筆者、義憤の涙、以下自主規制)

コラム、おわり
地方分権

地方分権とは、これまで中央行政が行ってきた業務について、地方レベルで行えるものを 地方自治体へと委託、委譲し、「小さな政府」を目指す政策のこと。

ただし、地方へ権力を分散させて「小さな政府」になってしまったため、 国家は大英断を行えず、抜本的な改革が行いにくくなったという欠点がある。

地方分権の観点からの地域創造

近年、地方分権が進み、地域の経営が、政府国家機関から、地域の行政に任されるようになりつつある。

各地域としては、それまで国政まかせだった業務を自地域でこなせる権利とともに、こなさなければ ならない義務をも押し付けられた形になる。

地域にとっては、不慣れなことへ取り組みをせざるを得ず、 確かに、自地域の経営の方向性を、自地域で決定していくことが可能となったのは事実ではあるが、 経営に失敗した場合、その責任も自地域で負うことになるというリスクも抱えることになった。

地方分権の観点から見た地域創造とは、地域それぞれの特性を考慮しつつ、それを自地域の誇りとし、 そしてまた、経済的、政治的に安定した地域行政のあり方を考察するものである。
過疎

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観光

観光(tourism)とは、娯楽を目的とした旅行のことである。

同じ旅行であっても、業務的なものや、帰省などは含まれないとされる。
観光の定義は「時間」、「場所」、「目的」の三要素からなるとされ、 1995年6月2日・答申第39号。観光政策審議会の「今後の観光政策の基本的な方向について」では、

「余暇時間の中において(時間)、 日常生活圏を離れて(場所)、 触れ合い、学び、遊ぶ(目的) などをする様々な活動」

とされている。

ただ、ツーリズム(tourism)の「tour」とは、ろくろを回す。即ち、周遊、回遊という原義を持ち、 近年では、業務的旅行なども、広義のツーリズム・観光に含めようと言う動きもある。

(参考:インターネット・フリー百科事典「ウィキペディア」より抜粋、及び要約)

観光の語源と歴史

観光は、「光を観る」と書く。

光とは「威光」のことである。中国の古典「易経」によると、 観光とは、かつて、中国の王が各地を行幸し、諸国の優れた文物を観て回り 自国の威光を発揚し、顕示することであったと言う。
つまりは、一部の支配者階級たちが、富と暇にかまけて、地方の文物を観て回ることによって、自らの 権威を知らしめる行為であった。(諸説あり)

日本でも同様のことが言え、平安時代前後は、紀貫之の「土佐日記」をはじめとした、役人たちの 旅行記などの文学作品がほとんどどだったが、江戸時代という平和な時代に入り、庶民の経済面も安定化してくると、 お陰参りなどの観光旅行が流行し、十返舎一九の「東海道中膝栗毛」など、庶民の旅行物の文学も登場した。

ちなみに「奥の細道」の松尾芭蕉は元々武士である。(関係ないか)

詳しくは田中教授の「観光史」あたりを受けてくれい。筆者はよく知らん。

観光の観点からの地域創造

地域創造(Regional Promotion)とは、その英訳からも分かる様に、端的に言えば「地域おこし」のことである。

大多数の町おこし、村おこしなどの地域おこしは、主に観光によるもので、どのような小さな地域にも、観光協会は存在する。
それらの地域は、大規模な商業施設はもちろん、観光施設、全国に浸透するようなシンボルも何も持たず、 奈良市のように、大仏商法と揶揄されるような手法を取ることも出来ない。
その地域は、しばしば、自地域が田舎であることによって残存している「自然」を売り物としてきた。

しかし、それらはどこの地域でも行われていることであり、自地域の固有性によって成り立っているものではない。 そこへ来る観光客からすれば、どこの地域へ同じだから、どこへ行っても構わないのである。

それに加えて、観光施設など自然の乱開発や、観光ゴミなどの問題が発生するようにもなった。

観光の観点から見た地域創造とは、そういった、現代観光の持つ問題を解決すると共に、 自地域と、他地域との差異化し、固有性を持つ。さらにそれを地域の誇りとして、それを広く一般にアピールし、 地域の精神的な充足を図ると共に、経済的な充足を可能とするような観光の方法の模索を目的としたものである。

大仏商法

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マス・ツーリズム

マス・ツーリズムとは、マス(Mass)のツーリズム(Tourism)。つまり大衆観光である。

パックツアーなどを思い浮かべていただけると良いだろう。 パックツアーは、19世紀にトーマス・クックが本格的に形作ったものと言われ、JTBなどの旅行仲介業者が、 大衆の観光をコーディネートするものであるが、日本ではなんと江戸時代から既に仲介業者が存在した。
逆に言えば、日本においては、その頃には庶民の経済的基盤が出来上がり、金銭や時間を持て余せる程の 生活水準を達成し、そしてまた、観光旅行と言うものが、大くの人々によってなされることになった ということを意味している。

戦後、経済復興から高度経済成長を経て、経済的に非常に豊かになって行く社会は マス・ツーリズムを爆発的に発展させ、ネズミ算的な観光者の増大をもたらした。
ただし、マス・ツーリズムは、一から十まで旅行代理店が企画してくれる代わりに、一から十まで スケジュールに縛られた観光になってしまい、観光に「行った」だけで、十二分な観光を「した」と 言う満足感、充実感を欠いてしまう場合もある。

大衆観光によって、奈良や京都とのような「観光地にする」ことを目的とされてきた場所とは違い、 本来観光地でない場所が、「観光地化する」ことが多々あり、そういった所に大衆が詰め掛けると、 観光施設など自然の乱開発や、観光ゴミなどの問題が発生する。
「世界の中心で愛をさけぶ」や「冬のソナタ」のロケなどで使われた場所などを思い浮かべて頂ければ よいだろう。

これらの弊害を緩和しつつ、マス・ツーリズムの利点を継承するという方向性で観光が議論されていく中、 新たな観光の形態としてオルタナティヴ・ツーリズムが提唱されたが、その実態、定義が曖昧なもので あった為、新たにサステナブル・ツーリズムが提唱された。、
サステナブル・ツーリズム

現在、執筆中・・・
グリーン・ツーリズム

現在、執筆中・・・
「記号論」 概念と記号

概念(concept)とは、言語では説明できないものであるという。

例えば、我々は「リンゴ」を誰でも知っている。 だが、その「リンゴ」の定義、概念を説明しようとすると、

「色は赤いものもあれば青いものもある」「大きさは大きいものもあれば小さいものもある」「木になる」「形は…」 「味は…」

などと、無数にその説明が存在し、では全ての「リンゴ」に共通する概念は?と問われても、決してそれを 答えること、答えきることは出来ないであろう。
(もし、「リンゴ」のような名詞ではなく、 形容詞や動詞なら、その「概念」の説明を相手に伝えることなど不可能に近い。)

しかし、我々はみな、「リンゴ」というモノが何であるかを知っている。

その、あらゆる「リンゴ」と呼ばれるモノが共通して持っており、そして、皆が共通了解として持っているもの。 奇才・ルードヴィッヒ=ウィトゲンシュタインの言うところの、「語りえぬもの」それが、「概念」である。

そして、そのモノの「概念」を相手に伝える時、「色は赤いものもあれば青いものもある」「大きさは大きいものもあれば小さいものもある」「木になる」「形は…」 「味は…」などと、無数の説明を重ねなければならないが、それでは効率が悪すぎる。そこで使用されるのが、 そのごちゃごちゃとした概念を象徴的に表現(シンボライズ)する言葉。 「リンゴ」という共通了解言語「記号」である。

ちなみに、古代の哲学者・プラトンは、この世に存在するあらゆるリンゴが持っている特徴全てを有している完璧無欠な「リンゴ」 があると仮定して、それを「イデア」と呼んだ。(もちろん、イデアと呼ぶべきものはリンゴのそれに限らない)

上記の「地域創造」の項をご覧いただきたい。
地域創造の「概念」を説明するためには、あれ程の、本来なら、あれ以上の文章量を必要とする。 だが、それは「地域創造」という単純な「記号」で表されるのだ。 それでも今いち分かりにくいのは、「地域創造」という「概念」も「記号」も一般には浸透していないからである。

「もったいない」とか「頑張れ」という言葉が海外に存在しないのは、そういった「概念」(考え方と言えば分かりやすいか) は曖昧にはあっても、それを 分かりやすく表し、一般に広く広めていく、いける「記号」が発明されていないからである。
(分かるかなあ? こんな説明しか出来なくて歯がゆいが)

「記号論」とは、マンガ、ゲーム、アニメなどが社会に与える影響について説明するときによく用いられる概念である。

「観光」においても、「記号論」が登場することがある。
例えば、ハワイに行けば、おそらく民族衣装を身に纏い、フラダンスを踊る人たちが出迎えてくれるだろう。
それは、あくまで、ハワイの真実の姿ではなく、我々一般人の持つ、ハワイのイメージ、概念を極端に記号化したもので、 誇張されたもの、演出的な「記号」である。
言ってみれば、奈良の「大仏」や「鹿」も、「奈良」という概念を表す「記号」の役割を果たしている。
そういった、地域の概念を、「分かりやすく広めやすい記号」で表現することは、観光を活性化させるためには極めて重要なことである。

ただ、概念を記号化すると、その記号ばかりが先行して、その中身の実態が見えにくくなり、現実性・現実感を伴わなくなるという難点がある。

例えば、奈良と言えば「鹿」だが、奈良と言えば、実際はそうでないにも関わらず、どこへ行っても鹿が居るというような イメージを漠然と持っていた人は多いのではないだろうか。
京都は、奈良と違って、「京都」という言語記号そのものが一人歩きしているが、逆に、京都と言えばコレ、という「記号」 も、京都の実態、実情もよく見えなくなっている。京都は奈良以上に色々あるしね。

京都はたぶん日本一ドロドロした都市だ。 宗教議会なんてものが存在して、予算の分配なんてやってる都市は世界でもバチカンと京都だけだ。それだけ、京都の裏世界は 金にまみれているのだ。総理大臣になろうと思ったら京都の寺に頭を下げに来なければならないなんて話もある。 でも、宗教法人は税金がほとんどかからない。結構な商売だ。京都で一番儲かってる「企業」は任天堂でも京セラでもない。 お寺さんだというのは京都の常識。

罰当たり、と言う無かれ。そもそも、日本の仏教は、時の権力者達によって、文化・文明の発展。及び、人民統治の 手段として使われてきた歴史がある為、本来のそれとは大きく異なっているのだ。
詳しくは、「文化人類学」の中谷教授に聞いてみるといい。

自動車の世界で言えば、「ホンダ」がその傾向にある。
ホンダ車は、確かに性能はいいし、数十年前は他社の追随を許さないほどだったが、だからと言って、現代においては「ホンダ」という記号ばかりが先行してしまっている感も否めない。
トヨタ車は、かなり実用的なカタログスペックにも関わらず、ホンダ車は、かなり見栄っ張りと言われる。 (ハイブリッドカー・インサイトなどが良い例だ。燃費記録の為だけに作られた車で、実用性皆無。売る気もナシ。 よくプリウスと比べられるが、そもそも、二人乗りクーペと五人乗りセダンで比べる方がおかしい。)
カタログスペックも、良いデータが出るような環境でわざわざ実験しているとすら専門家筋は言う。

「地域創造」という記号は、奇抜さと、イメージの刷新と、世間にインパクトを与えることを狙ってつけられた「記号」 なのだろうが、ぶっとびすぎてて分かりにくく、その「記号」から中身を想像しにくい「記号」とも言える。
ほとんど恒真関数(トートロジー)に近いものだ。 恒偽関数(コントラディクション・矛盾)になってないだけまだましだが。
ある程度その効果はあったようだが、自分でつけた名前に自分で大コケしなけりゃいいのだが……
もうちょい分かりやすい「記号」は無かったのだろうか? それをつけた教授はもうどっかへ消えたし。

まあ、記号論なんて考えること自体が無意味。あるいはナンセンスだ、という意見も良く分かるけどね・・・

遠藤教授の「社会学」や「現代文化論」。奈良女子大学の松本教授の「地域文化論」あたりでよく登場するから、 知っておいて損はない。詳しい解説はしてくれないけどね。ア・プリオリ(経験的認識に先立って与えられること)に説明 してくれるだけで。当人達も、記号、記号と言うけれど、記号論はおそらく専門外だと思われる。
彼らの言う「記号」とは、単なる代名詞的な意味合いでの「記号」に留まっている気がする。(それはそれで正しいのだが)
ミクロとマクロ

ミクロ(micro)とは、小さい、微視的などの意で、小局面を表す。
マクロ(macro)とは、大きい、巨視的などの意で、大局面を表す。

具体的には、

ミクロ←→マクロ

戦術(tactics)←→戦略(strategy)
原子レベル極少世界←→天文学レベル極大世界


のような感じ。(戦術、戦略の考え方は、クラウゼヴィッツ流を採用した。)

ミクロ経済学とは、小局的・家庭レベルでの経済。マクロ経済学とは、大局的・国家レベルでの経済を取り扱う 学問・・・で良いのか?筆者は受講してないからよく分からん。

厳密な定義はないが、とりあえずは、小局と大局を表す言葉と認識しておけば十分。
ミクロ的観点、マクロ的観点、といった使い方が出来る。知ってると結構便利な言葉。

基本的に、奈良県立大学の地域創造とは、ミクロ的観点からのものである。
それは、政府など、行政のマクロ的観点からの地域建て直し方策とは、しばしば対立することがある。

これは、最大多数の最大幸福を目指す民主主義的社会原理が常に抱えているジレンマである。
つまりは、最大多数になり得ない少数派(マイノリティ)には、幸福が与えられないのだ。

(例えば、船橋商店街を再興するのはミクロ的地域創造に通ずる考え方だが、おそらく船橋商店街以外の住人。 マクロ的、大局的な奈良市民の消費行動にとっては、船橋商店街の存在意義は、もはや皆無に等しいだろう。 船橋商店街が再興して喜ぶのは、そこの住民だけなのだ。それ以外の大多数の奈良市民にとっては どうでもいい話なのだ。)
バズワード

バズワード(Buzz Word)とは、バズ(羽虫)がやかましくぶんぶん言うように、その実態・内容がよく分からないにも関わらず、 あたかも次代のキーワードであるかのように、マッチポンプで持ち上げられ、内容不明・実態不明のままでもてはやされ、 騒ぎ立てられる言葉。記号論の一種としてみることも出来るかもしれない。

具体的には、「Windows95」、「ユビキタス」、「Web2.0」など。色んな所に応用が利く言葉。

筆者個人としては、「バカの壁」「産官学一体」「韓流」「嫌韓流」。サブカルチャーでは、「エヴァンゲリオン」「ガンダム」なども そうだったと思う。「イナバウアー」「ハンカチ王子」「ナンバ歩き」とかもある意味でね。

悪いのは、その言葉を使い始めた人間とではなく、無意味に煽り立てるメディアである。
世界を読み解くためには、メディア・リテラシーの能力が必須となる。

あと、「地域創造」も、奈良県立大学内限定でのバズワードかもしれない。